2011年1月15日土曜日

梶井基次郎『檸檬』

高校時代の教科書に梶井基次郎の『檸檬』が載っていた。
当たり前の様に現代文の定期試験に出題され、
私のトラウマになった曰く付きの作品である。
正直言って難解であったし、試験の出題の意図が全く理解できなかった。
なんとも釈然としない鬱蒼とした気持ちがわたしを取り巻いており、
以来、梶井基次郎からも檸檬からも遠ざかっていたのだ。
スーパーに並ぶ檸檬を見るたびに何となく落ち着かない気持ちになる。
こんなことはそんなに長くもない人生においては珍しい事であったが、
檸檬を口にする事自体ほとんどなかったような気がする。
あれから10数年、私自身にも様々な経験があった。
紆余曲折を経て、わたしは『檸檬』を再び手に取ってみた。

「得体の知れない不吉な塊が私の心を終止圧えつけていた」という文章で始まる。
まさに当時『檸檬』を読んだ時の私の心情そのままだったのではないかと思う。
文中の「見窄らしくて美しいものに強く惹きつけられる」事や「錯覚が成功し始める」事、
「現実の自分自身を見失うのを楽しんだ」事の意味が自分なりに解釈できる様になった。
檸檬のくだりは、モノクロの世界にぱっと色が差したような感覚を得る、
主人公が檸檬を手にした際の心情が流れる様に入ってくるのだ。
「檸檬を手に取った際の実際あんな単純な冷覚や触覚や嗅覚や視覚が、
ずっと昔からこればかり探していたのだと言いたくなったほど私にしっくりした」
という文章を読んで、『檸檬』そのものがわたしにとっての檸檬なんだと実感した。
若かりし頃に理解できなかった檸檬の重さを、
自分の経験と記憶が補完してくれたような気持ちになった。

余談であるが、教科書で『檸檬』を目にしてから1年後、とある漫画に出てきた
「桜の樹の下には死体が埋まっているんだよ」という言葉が強く印象に残った。
引用先があるようだとわかり調べていくとなんと梶井基次郎...。
疑り深い目で梶井文学を見つめていた当時の私は、なんとなくあきらめもつかず、
しかし梶井文学を読む気にはなれずに、坂口安吾の『桜の森の満開の下』を読んだ。
当たり前の様に私の気持ちは満たされなかった訳だが、
それでもその頃の私は『桜の木の下には』を読まなかった。

結局のところ『檸檬』を読んだついでに『桜の樹の下には』と『Kの昇天』を読んだ。
梶井基次郎はむしろ私の好きなタイプの作家であった。
そして今日はセンター試験。
建築家青木淳氏の「原っぱと遊園地」が国語の試験に引用されたとのニュースに驚きつつ。

niico

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